#0
親のことは毒親だと思っていたがつい最近自分がアダルトチルドレンに当てはまると気づき、自分の人生を取り戻すために書き始めたものです。
もう22歳になってしまい多くのものを取りこぼしてきたけれど、もう失っていきたくないので、まずは自分の記憶に残っている人生を文字に起こして振り返っていこうと思う。
記憶の中であった出来事と、当時覆い隠してしまった感情の一つ一つを受け止めるところから始めることにする。
これを始めようと思ったきっかけはいくつかあるが、その中でも特に心がしんどくなったものが2つある。
1つは、毒親について斎藤学さんが書かれた本を読んでいて、衝撃を受けたことであった。
私はずっと生きることがしんどかった。
毒親に育てられる中で生きる意義を見失い続けていた幼い14歳の私が、ようやく見つけた自分の生きる意義が、途上国で死んでしまいそうな子供たちを助けるということだった。
誰かの命を救うような私でなければ生きる価値はなかったのだ。
それを成し遂げるために生きる、ということにして、志を持ったつもりになっていた。そうして自分が生きていていい存在だと、思い込もうとした。
その斎藤先生の本を読むまで、心のどこかでその志もどきをもっていることを鼻にかけていた。
しかし、斎藤先生いわくそれは「アダルトチルドレンにはよく見られる傾向」らしい。
なるほどそれはそうだと思った。しかし同時に何とも言えないやるせなさが私を襲った。
私がたくさん泣きながら自分で見つけたアイデンティティは、単なる毒親育ちによく見られる傾向でしかなかったということだ。そのむなしさが分かるだろうか。
自分で探し出したと思った大切なものが、ただの自分の最も憎らしい人物がすてたごみでしかなかったような感じ。
結局毒親の影響で「確率論として高い」志を持ったわけだった。
目の前が真っ暗になり、むなしさしかなかった。自分がからっぽである感じがした。
2つめは、歯医者に通っていた時の出来事である。
私は歯医者でバイトをしていて、そこで仲のいい先生に歯の治療をしてもらっていた。
虫歯が多く、何回か治療していく中で先生に言われた一言が「虫歯ばっかじゃ~ん、小さい頃にできた虫歯だね~。あなた、お勉強は教えてもらったのに歯磨きは教えてもらわなかったんだねぇ」と言われた。あははと笑うしかなかった。その通りだった。
勉強面に関しては親はお金を出してくれた。塾にも行かせてもらったし、中学受験が失敗しても受かった親の本命ではない私立の中高に通わせてくれたし、大学受験に失敗しても浪人させてくれたし、今は阪大に入ることができた。
なお、私にお勉強を教えてくれていたのはこれら教育機関の先生たちである。親ではない。親はそこに通うためのお金を出してくれた。
そして私は歯磨きを知らずに育ってきたのである。(おそらく私の親はネグレクト気味だった。)
永久歯が生えてきてからも、元の歯がほとんど残らなくなるくらいに虫歯が侵食するまで、私はちゃんとした歯磨きを知らずに育ってきたのだ。
歯が痛いと言えば歯医者には通わせてもらっていたのだ。お金は出してもらっていた。虫歯と治療のいたちごっこだった。だからかろうじて今さし歯やインプラントなどにはならずに済んでいる。でもそういうことじゃない。中高時代歯が汚いから笑うことに抵抗を覚えていたこともあった。
先生の何気ない一言で、ただ、その事実を突きつけられたのであった。
現在私は親と離れて暮らす日々の中で心が回復してきていたわけだが、一生付きまとう爆弾を知ってしまった。
私のせいじゃないのに私はもうきれいな自分の歯で生きられない。神経の近くまで削ったため少ししみる、たくさんの白い詰め物をした歯や銀歯と共に生きていく。
健康な歯って本当に親からの一番の贈り物なんだなと思った。
あまり一気に書くと心臓がどくどくしてひどく締め付けられるので、すこしづつ書いていこうと思う。頑張るけど無理はしないで、ゆっくり振り返っていく。
これを終えた先で、こころが自由になれればとおもう。
#7 幼少期7
ある日曜日の朝。
目が覚めて、眠い目をこすりながら真っ暗なリビングに行く。
明かりをつけて、水道水を飲もうとした。
そのときにふとダイニングテーブルを見ると一枚の紙きれがあった。
紙には「さよなら」の4文字だけが書かれていた。
母がいなくなった話
少し時間が経つと姉と父もリビングへとやってきて、その紙の存在に気付いた。
姉は少し泣いていたが、私は涙も出なかった。
父は静かにタバコを吸っていた。
前触れなど一つもなかったと思う。本当に突然のことだった。
次の瞬間何が起こるかわからない人生ではあったが、起きたときに家族がいなくなるとは思いもしていなかった。訳が分からなかった。
私は捨てられてしまった。
私がどうしようにもない子供であったから、母は残していったのだ。
愛することができなかったから置いて行かれたのだ。
共に日々を過ごす価値がなかったから置いて行かれたのだ。
私は血のつながった親にさえも見捨てられるような人間でしかなかった。
すでにぽっかり穴が開いた心じゃ涙も流せない。
ただひやりと胸が寒くなった。
ー - -
今でも鮮明に思い出せる。
母の字も、姉のパジャマ姿も、父の吐く紫煙も。心の奥底にこびりついている。
この日に一度世界は終わってしまった。
もうだれも信じてはいけない。誰かに愛してもらえるような価値はない。親にも愛されない私が、生きている意味なんてどこにもない。
今日微笑みかけられても、好きだと言われても、日が落ちて登れば手のひらはひっくり返るのだ。
長年一緒に生活した親でさえ、私を生んだ親でさえ、無償で愛してくれるはずの親でさえそうなのだから!
ただ、悲しかった。大きな泣き声をあげたかった。
どうしてって、悲しい、さみしい、置いてかないで、愛してって、泣きたかった。
#6 幼少期6
虐待のイメージでよくあるのは暴力なのではないだろうか。
私の家では、私は親から暴力を振るわれることは少なかった。
代わりに、姉からの暴力を受けていた。
連鎖する暴力の話
小さなころの姉との思い出は、楽しかったものとつらかったものがある。
楽しかったのは、普通に姉として接してくれていたこと。
二人で恐怖と闘いながら手を握り合っていたこと。
日々を生きる中でお互いが支えになっていたこと。
姉がいたから私は幼い日々を生きることができていた。
でも同じくらいいじめられてもきた。
父が母をたたき、母が姉をたたき、姉が私をたたく。
被虐者は加害者に立ち向かえない。
自分より弱いものに暴力をふるうことで心を保たせるしかなかったのかもしれない。
私の家は常に被虐者と加虐者がいた。
怖さと、楽しさと。一瞬先には何が起こるのかわからない日常。
振り上げられた手は殴るためか、それともなでるためなのか。
恐怖心と家族を慕う心が入り乱れていた。
#5 幼少期5
むなしさの募るとある日、私は母にねだった。
どうしてもお弁当が作ってほしいと、頼み込んだのだ。
トマトの話
幼稚園給食の契約もしていないがお弁当を作ってもらえない結果、
見かねた先生に給食を恵んでいてもらっていたが、
劣等感とむなしさが募った5歳児がようやく母に、
ママお弁当幼稚園に持っていきたいと言葉にした。
これがのちのトラウマを作ることになるとも知らずに頼み込んでしまった。
お昼に珍しくお弁当を携えていた私は誇らしげな顔であった。
給食を今日はお弁当があるからとお断りし、ついにその時を迎えた。
開いたお弁当の中に入っていたのは白米とミニトマトとイチゴだった。
ミニトマトとイチゴはなぜかぐちゃっとしていて汁が出ていて、白米にしみこんでいた。
おかずカップなんてものはない。
とても私は嬉しがっていたのだ。みんなが親が作ってくれたんだよというお弁当を私も持てていたのだから。ようやく夢がかなったというわけだ。
お弁当の中身に違和感を覚えることはできなかった。
何が普通なのかを知らなかったから。
私は嬉々としてミニトマトを口に運んだ。
ようやくあこがれていたお弁当を食べられる。
笑顔で口に入れて咀嚼した後、私は吐いた。
ー - -
本当にびーっくりした。
まさか腐ったものがお弁当に入ってるなんて思わんよね、
ていうか腐ってるがどういうことかも知らんよね。
あこがれてた「お弁当」だったらもう何でも口に入れてた。
イチゴの味がするぐちゅぐちゅなトマトが今もトラウマ。
そしてこれ以降もうお弁当は頼まんくなった。怖いからね。
たぶん母親に悪気があったわけでもないんじゃないんかなとさえ思ってくるんよね、
腐ってることがあの人自身にも判別つかんから大丈夫と思って入れたんやろね、
常識ってものが分からんかったんやろうね。
本人は頼みごとに応えてあげただけなんやろね。
もうどうしたらよかったんかも分からん。
#4 幼少期4
父が出張だったとある日のこと。
私と姉は母に連れられ、飛行機に乗った。
旅行だと思ったら母の浮気につきそっていた話
たどり着いたのは北海道だった。
ひげが生えた知らない人と母は落ち合った。
タバコくさい車でいろんなところに連れていってもらった。
アイスクリームを食べたさせてもらった気もする。
たくさん笑った気がする。
カラオケにも行った。
その男の人がポルノグラフィティのアゲハ蝶とゆずのいつかを歌っていたことだけをただ鮮明に覚えている。
これが複数回あったことなのか、この1回だけなのかはよく覚えていない。
でも私にとってこの旅行は楽しいものだった。
母は笑っていて、おいしい食事がもらえて、暴力や暴言がない。
それだけで満たされたような気がした。
これが母の浮気であると知るその日までは。
ー ー ー
高校生になるくらいまでアゲハ蝶といつかがめっちゃトラウマになりました。
音楽番組で流れるたびに泣きたいような怒鳴り散らしたいような、何とも言えない気持ちが沸き上がった。
恨めしいような憎らしいような胸が締め付けられるような。
でも母は確かに幸せだっただろうし、
私もよく笑っていた。幸せなひとときには違いなかったんだろうなぁと思う。
しかし母の浮気であったことが判明してから、楽しい記憶は崩壊した。
小学生の時はこの無意識について行ってたことがすごくしんどくなったことが多かった、
母の浮気を許可してしまっていたような自分
言外に認めていたような自分がすごく許せなかった。
母の浮気をとがめる恨みと同じように北海道へとついていった自分を呪った。
食べ物をもらって楽しい気持ちを抱いた自分を呪った。
罪悪感から逃れるように、罪滅ぼしのように。
母を卑下し、冒涜する行為をたくさんしてきた。
#3 幼少期3
父がやばい奴であったことはお察しだが、母もたいがいやばい奴であった。
#1で書いたが、母はネグレクト(育児放棄)をする人だった。私に対しては暴力をふるうことはなかったと記憶しているが、ネグレクトがマジでヤバイ。
幼稚園で待ち続ける話
私は保育所ではなく幼稚園に通っていた。
そこではもしかしたら問題児として扱われていたのかもしれない。
まずお迎えのバスの集合時間にほとんど間に合わない。
家で何があったかというと、母が起きないのである。目覚ましが鳴り響く中起きない母。
私も起きないことがあったし、起きたけど親が起きないから出てはいけないと思っていけないこともあったし、寝巻の母に玄関で見送られてお迎えの場所に一人で向かう日もあった(当時3歳だったけどこれって普通なのかな、よくわからない)。
ほとんどの日はぐうすか眠る母を私がたたき起こす。間に合えばバス乗り場へ行く、間に合わなければ母が自転車で送ってくれる。そんな感じだった。
親が寝起きでただ見送るとどうなるかというと、幼稚園に行くのに朝ごはん食べてない歯磨きしてない顔洗ってない髪ぐちゃぐちゃな子どもが爆誕した。
挙句に給食制度の登録をしていないのに親がお弁当を作ってくれないから給食を恵んでもらっていた。(料金をきちんと支払っていたかどうか、真相は闇の中である)
おばかちゃんだったので自分の見た目はみじめに思っていなかったが、お昼の時間に両隣の子がママのお弁当おいしいと言っているときすごくみじめだった。このみじめさが後々の悲劇をうんだ。(また後日)
一番記憶に残っているのは帰りのバスである。
本来は親たちが待っている区域の集合場所的なところでバスからおろしてもらい、親とセットでばいばいというのが一般的であった。(むしろ安全面的にそれでないと帰せない。)
親が仕事で迎えに来れない人は居残り保育という制度があった。そういう子たちは帰りのバスには乗らず、幼稚園で遊びながら親の迎えを待つ。
私は母親が仕事をしていなかったので居残り保育には登録していなかった。
だから、バスに乗り込んだみんなと同じように集合場所でおろしてもらっていた。
しかしそこに私の母はいない。
先生に「ママいない」と伝えて再びバスに乗り込む。
それからわざわざバスで家の前まで送ってくれ、私が家のチャイムを鳴らすのを見守ってくれた。家のチャイムを鳴らしても、だれも出てこない。シンとした家が目の前にただあるだけ。
誰も出てこないのを確認してからまたバスに戻るのもすごく惨めであった。
ほかの区域の集合場所をまわり、周りの子がどんどんバスから降りていく。窓の外で親と笑顔で「ただいま」「おかえり」というやり取りをする。それを見るのがすごく惨めで、むなしかった。
みんなが下車した後、一人でまた幼稚園に戻り、居残り保育の子たちと一緒に遊んだりして親を待つ。
早い時はすぐに迎えに来てもらえることもあった。遅い時は居残り保育のみんなが帰っても迎えに来てもらえず、幼稚園が締められ、残業する園長先生のお部屋でひとり待たせてもらっていた。もう迎えに来てもらえないのかもしれないという恐怖を毎日抱えていた。
親が迎えに来ない理由は「寝ていた」。それだけであった。
ー ー ー
本当にさみしかった。あと怖かった。
いつか幼稚園に行かせてもらえなくなるんじゃないかという恐怖もあったし、もう家に帰れないんじゃないかという恐怖もあった。
ずっとおびえながら毎日を過ごしていた。
こういうことはしちゃいけないよほんとに。こどもの自己肯定感とか何もかもを失う。
お昼を過ぎたくらいから恐怖と惨めさとさみしさしかなかった。
こういうことがあっても親からは何も説明されない。
誰もフォローなんてしてくれない。
父はこういうことがあることすら知らない。
子供は何も言ってはいけない。
「よくわからないけど、そうなんだ」と思わないといけない。
毎日がイレギュラーで、規則性なんかなくて、よくわからない理不尽をただただ受け入れることしかできなかった。
園長先生の部屋では見栄をはって、何でもないような顔で過ごしていた。「私の毎日はこんなもんです、なんてことはないです、平気です、悲しくないです」って、思い込んで、自分の心を守ろうと必死だった。
泣き言もこぼせなかった。それ以上惨めな気持ちになりたくなかった。「さみしい私」を、受け入れるにはあまりにも、つらすぎた。
#2 幼少期2
#0でも書いたが、私の親は教育ごとにお金を出してくれる。
そのおかげで私と姉は幼少期から英会話教室に通っていた。
特急で数駅電車に乗り、駅を降りてからさらに10分ほど歩いたところにその英会話教室はあった。
なので、小学生と幼児だけで通えるわけもなく、母が一緒に連れて行って連れて帰ってくれていた。
姉と2階で震える話
ある土曜日のことである。
毎週のように通っていた英会話教室の帰り。
普段は夕方の17時くらいに地元の駅に着くのだが、その日は疲れていたのか、3人とも電車の中で眠ってしまった。目覚めたときには、最寄り駅のドアが閉まる瞬間であった。
乗り過ごしが決まった。
次の駅で降りて、Uターンして、最寄り駅で降りる。急ぎ足で家へと急ぐ。
門を開け、玄関にカギをさし、静かに開く。
私と姉は急いで2階へと駆け上り、母は音をたてないようにリビングへと向かった。
姉と一緒に自分たちの部屋へ入りドアを締め、布団をかぶった瞬間に響き渡る父の怒鳴り声。何かを投げつける音。
私たちは布団の中で小さく縮こまり、時が過ぎるのを待つしかなかった。耳をふさぎながら姉と手を強くつなぎ、震えていた。
父は時間通りに帰ってこなかったことにぶちぎれたのであった。電車を一駅乗り過ごしたことにぶちぎれたのであった。
体感時間は1時間くらいだっただろうか、父がリビングのドアをたたきつけるように締め、階段を踏み鳴らしながら登ってくる。
私はこの瞬間が最も怖かった。階段を上り切って最初にある部屋にいたから、ドアを開けて父が怒鳴りつけて、ものを投げるのではないかという恐怖で気が気じゃなかった。
いつ母の姿が自分になるかわからなかった。ただそれにおびえていた。
幸い父は部屋に入ってこず、自分の部屋に入りたたきつけるようにドアを閉める。
その音に震えてから、私と姉は少しほっとして布団から出て、少しこしょこしょと話をしてから音をたてないようにそっとリビングへ降りるのであった。
散らかったリビングに戻っても母からは何も説明はされない。何も聞いてはならない。
何事もなかったかのように過ごす。いつも通りの散らかったリビングで夕ご飯を食べ、テレビを見る。それだけ。
そのあと父がリビングに下りてきて、少しびくっとする。
しかし父はいつも通りに戻っている。何事もなかったかのように私たちにお帰りといい、少し雑談をして、一緒にテレビを見る。
怒鳴っていたことは聞けない。言及してはいけない。おびえてはいけない。説明はもちろんされない。
それが当たり前だった。
ー ー ー
あらためてこの家こわい。父どんだけ簡単にキレるんだよ繊細かよ。
自分の感情くらい自分でコントロールしてほしいもんである。
そして一方的なコミュニケーション(物理)は控えてほしいもんである。
父はいつだってやべぇやつであった。
書き出してみて改めて思ったのが、これ初めての記憶じゃない、ということだった。衝撃。
姉と布団まで逃げるのがスムーズすぎるのだ。まるでよくあることであるように。何度も経験したことがあるかのように。
実際何度も経験したことがあるんだと思う。父は激情型のいらちであった。
ささやかなことでまさにぷちっといくタイプであった。
なにが逆鱗なのかもわからない。
よく母は暴力と暴言を受けていたのだと思う。
この時じゃない記憶で、父が母に向かってテレビのリモコンをたたきつけたシーンが頭に残っている。(幸いリモコンは母には当たらず床に当たりはじけとんだ。)
この繰り返される母の姿は「いつかの私」という恐怖を私に抱かせた。
いつもは優しく見える父。何かの拍子に父をキレさせ、ひどい扱いを受ける母。そして何事もなかったかのように戻る家族。
父は私にだって優しかった。私がする言動でいつ父がキレるかもわからなかった。父からの暴力や怒鳴り声が、いつ私に向くのか、優しい時も不機嫌な時もずっとおびえていた。
見えもしない空気を読まなければならないと幼いながらに気を遣っていた。
疑問を抱くような真似はしてはならない。何にも気づかない、おかしいと思わない、愛想を振りまく従順でばかなぴえろでいることが、生きるためのすべだった。
ぽぽんと生まれてきたら親がこんなんで運命とか偶然とかめちゃくちゃ呪いました。
幼少期のこんな感じの経験と記憶が、ほんとうに今の私の人間不信の大半を形成している。
調子がよくないとき、少し自尊心が減っているとき、誰も信用できなくなる。
よく悪口をいう友達に対しても同じ恐怖心を抱いてしまうことがある。
悪口を言われている子は母と同じでいつかの私なのだ。
最新の注意を払って空気を読み、ご機嫌を取り、笑われる存在でなければならない。気に入られなければならない。
友達は別に私の命や衣食住を握っているわけでもないのに、父が握っていた名残で同じように恐れてしまうのだ。
大切な人や距離感が近い人ほど、この恐怖心を抱きやすくなる。
親しい人もたまに過激派で、侮蔑しているような言葉を言うときがある。
そんな時私は同じように恐れてしまい、胸がひどくきしむのだ。
#1 幼少期1
私の幼少期(=小学校に入る前)は母親がいたころと、いなくなってからに分けられる。
時系列順にまずは母親がいたころから思い出していこう。
姉とカップラーメンをすする話
当時の私は4人家族だった。一般的な、父と母と4歳上の姉と私の4人家族であった。
最初の記憶はいくつのころなのかはよくわからないが、まだ私が幼稚園に通っているときであった。
おそらく3歳くらいだったと思う。
当時、週末に父はよく出張でいないことが多かった。
母は父の出張に合わせてよくどこかにいなくなった。
私とまだ7歳くらいの姉は、二人ぼっちで一戸建ての家に残された。
家に食べるものはない。
スーパーには遠くて行けない。
買い出しに行けるだけのお金は与えられていない。
だれにも料理を教わったことがない。
助けてくれる人はいない。
いつ帰ってくるのかもわからない。本当に「帰ってくるのか」もわからない。
私と姉は日々掃除の行われていないぐちゃぐちゃなごみ屋敷のなかで二人で生きていかなければならなかった。
何も言わずに家を出て、少し出るだけだと思っていた母が夜になっても帰ってこない。おなかがすいても帰ってこない。寝て起きて夜が明けても帰ってこない。
きっとこのころのダメージは姉のほうが大きかったと思う。
姉であるがゆえに私の面倒まで見なければならなかった姉。
自分が生きるために精一杯なのに私のことも死なせてはならない姉。
このころに姉が負ったダメージを思うと何とも言えない。
そんな面倒を見てくれる人がいなくなった不安の中で、私たちが家をあさってようやく見つけたのがカップラーメンだった。
ようやく食べれるものが見つかったというよろこびでいっぱいだった。
お湯を沸かして、お湯を入れて、少し待って。そうして温かいスープを飲んだ時の幸福感をじんわりと覚えている。
究極におなかがすいた状態で食べるカップラーメンはおいしかった。
その後母は普通に、何事もなかったかのように帰ってきた。おそらく1泊2日とすこしくらいだったのだと思う。
帰ってきた母は何の説明もなく、私たちも母に聞けるわけもなく。
「そういうもの」だと思っていたのだ。
それが普通のことであると思っていたのだ。
そのあと、出張から父は帰ってくる。
それを母が迎える。
父は、おそらく20年弱たった今も、私と姉が二人ぼっちで家で誰も帰ってこない恐怖に、何も食べられずに死んでいくんじゃないかという恐怖に震えていたことを知らない。
ー ー ー
いや普通にあたまおかしい。
お姉ちゃんのがかわいそうだけどこれはそういう比較してどうとか一切気にせずに書く。
この振り返りの真ん中にいるのは私なので。私の心のためのものなので。
そもそも母という概念が私はよくわからないのだが、ろくに料理をしていなかった覚えしかない。幼稚園に入るようになってからお弁当を作ってもらった記憶はあるが、夕ご飯の記憶が一切ない。まぁそんなもんだろう。
必然的に姉も料理ができなかった。ていうか小学2年生が料理作れるわけがなかった。
普通に考えて幼児と小学生2人置いて家開けるってやばい。
カップラーメンが見つかってよかったね、だけど小学2年生と幼児が二人でお湯沸かすってだいぶ危ないし普通にやばい。
ていうか風呂もこんなちびっこだけじゃ入れないしトイレすら行けていたのか怪しい。着替えていたかとかもう論外。
私の母は頭が少しおかしい人だった。精神的に患っていた記憶がある。
だから(?)、たぶん2日間家開けるね、とかお金置いておくね、みたいな説明とかフォローもなく普通に家を出たんだと思う。(あってもおかしいのだが。)
私と姉は基本的に置いて行かれる恐怖にずっとさらされていた。
家に残されて親が外出したら、帰ってこないことがある。
もちろん普通に帰ってくることのほうが多かったと思う。
でもこの少しづつ積み重なる「わからないけどなぜか帰ってこない」「帰ってきてもなにも言われない」「なかったことにしないといけない」は私をおかしくしていった。
それがすこしずつ普通になってしまっていったのであった。
その結果、安心することができなくなっていった。
明日は食事をできるのか?起きたときに一人になっているのではないか?出たらずっと帰ってこないのではないか?
でも、これは誰にも言っちゃいけないことだった。「なかったこと」なのだから。
常に不安が隣にいるようになってしまった。
この後遺症は今も残っている。安心感をうまく得られないことがある。
友達や恋人に対しても明日は手のひら返しを受けるんじゃないかとおびえている。
「親でさえ」突然いなくなり、私のことを置いて行ってしまうのだから。と、今も思い続けてしまうのだ。