#1 幼少期1
私の幼少期(=小学校に入る前)は母親がいたころと、いなくなってからに分けられる。
時系列順にまずは母親がいたころから思い出していこう。
姉とカップラーメンをすする話
当時の私は4人家族だった。一般的な、父と母と4歳上の姉と私の4人家族であった。
最初の記憶はいくつのころなのかはよくわからないが、まだ私が幼稚園に通っているときであった。
おそらく3歳くらいだったと思う。
当時、週末に父はよく出張でいないことが多かった。
母は父の出張に合わせてよくどこかにいなくなった。
私とまだ7歳くらいの姉は、二人ぼっちで一戸建ての家に残された。
家に食べるものはない。
スーパーには遠くて行けない。
買い出しに行けるだけのお金は与えられていない。
だれにも料理を教わったことがない。
助けてくれる人はいない。
いつ帰ってくるのかもわからない。本当に「帰ってくるのか」もわからない。
私と姉は日々掃除の行われていないぐちゃぐちゃなごみ屋敷のなかで二人で生きていかなければならなかった。
何も言わずに家を出て、少し出るだけだと思っていた母が夜になっても帰ってこない。おなかがすいても帰ってこない。寝て起きて夜が明けても帰ってこない。
きっとこのころのダメージは姉のほうが大きかったと思う。
姉であるがゆえに私の面倒まで見なければならなかった姉。
自分が生きるために精一杯なのに私のことも死なせてはならない姉。
このころに姉が負ったダメージを思うと何とも言えない。
そんな面倒を見てくれる人がいなくなった不安の中で、私たちが家をあさってようやく見つけたのがカップラーメンだった。
ようやく食べれるものが見つかったというよろこびでいっぱいだった。
お湯を沸かして、お湯を入れて、少し待って。そうして温かいスープを飲んだ時の幸福感をじんわりと覚えている。
究極におなかがすいた状態で食べるカップラーメンはおいしかった。
その後母は普通に、何事もなかったかのように帰ってきた。おそらく1泊2日とすこしくらいだったのだと思う。
帰ってきた母は何の説明もなく、私たちも母に聞けるわけもなく。
「そういうもの」だと思っていたのだ。
それが普通のことであると思っていたのだ。
そのあと、出張から父は帰ってくる。
それを母が迎える。
父は、おそらく20年弱たった今も、私と姉が二人ぼっちで家で誰も帰ってこない恐怖に、何も食べられずに死んでいくんじゃないかという恐怖に震えていたことを知らない。
ー ー ー
いや普通にあたまおかしい。
お姉ちゃんのがかわいそうだけどこれはそういう比較してどうとか一切気にせずに書く。
この振り返りの真ん中にいるのは私なので。私の心のためのものなので。
そもそも母という概念が私はよくわからないのだが、ろくに料理をしていなかった覚えしかない。幼稚園に入るようになってからお弁当を作ってもらった記憶はあるが、夕ご飯の記憶が一切ない。まぁそんなもんだろう。
必然的に姉も料理ができなかった。ていうか小学2年生が料理作れるわけがなかった。
普通に考えて幼児と小学生2人置いて家開けるってやばい。
カップラーメンが見つかってよかったね、だけど小学2年生と幼児が二人でお湯沸かすってだいぶ危ないし普通にやばい。
ていうか風呂もこんなちびっこだけじゃ入れないしトイレすら行けていたのか怪しい。着替えていたかとかもう論外。
私の母は頭が少しおかしい人だった。精神的に患っていた記憶がある。
だから(?)、たぶん2日間家開けるね、とかお金置いておくね、みたいな説明とかフォローもなく普通に家を出たんだと思う。(あってもおかしいのだが。)
私と姉は基本的に置いて行かれる恐怖にずっとさらされていた。
家に残されて親が外出したら、帰ってこないことがある。
もちろん普通に帰ってくることのほうが多かったと思う。
でもこの少しづつ積み重なる「わからないけどなぜか帰ってこない」「帰ってきてもなにも言われない」「なかったことにしないといけない」は私をおかしくしていった。
それがすこしずつ普通になってしまっていったのであった。
その結果、安心することができなくなっていった。
明日は食事をできるのか?起きたときに一人になっているのではないか?出たらずっと帰ってこないのではないか?
でも、これは誰にも言っちゃいけないことだった。「なかったこと」なのだから。
常に不安が隣にいるようになってしまった。
この後遺症は今も残っている。安心感をうまく得られないことがある。
友達や恋人に対しても明日は手のひら返しを受けるんじゃないかとおびえている。
「親でさえ」突然いなくなり、私のことを置いて行ってしまうのだから。と、今も思い続けてしまうのだ。