#3 幼少期3
父がやばい奴であったことはお察しだが、母もたいがいやばい奴であった。
#1で書いたが、母はネグレクト(育児放棄)をする人だった。私に対しては暴力をふるうことはなかったと記憶しているが、ネグレクトがマジでヤバイ。
幼稚園で待ち続ける話
私は保育所ではなく幼稚園に通っていた。
そこではもしかしたら問題児として扱われていたのかもしれない。
まずお迎えのバスの集合時間にほとんど間に合わない。
家で何があったかというと、母が起きないのである。目覚ましが鳴り響く中起きない母。
私も起きないことがあったし、起きたけど親が起きないから出てはいけないと思っていけないこともあったし、寝巻の母に玄関で見送られてお迎えの場所に一人で向かう日もあった(当時3歳だったけどこれって普通なのかな、よくわからない)。
ほとんどの日はぐうすか眠る母を私がたたき起こす。間に合えばバス乗り場へ行く、間に合わなければ母が自転車で送ってくれる。そんな感じだった。
親が寝起きでただ見送るとどうなるかというと、幼稚園に行くのに朝ごはん食べてない歯磨きしてない顔洗ってない髪ぐちゃぐちゃな子どもが爆誕した。
挙句に給食制度の登録をしていないのに親がお弁当を作ってくれないから給食を恵んでもらっていた。(料金をきちんと支払っていたかどうか、真相は闇の中である)
おばかちゃんだったので自分の見た目はみじめに思っていなかったが、お昼の時間に両隣の子がママのお弁当おいしいと言っているときすごくみじめだった。このみじめさが後々の悲劇をうんだ。(また後日)
一番記憶に残っているのは帰りのバスである。
本来は親たちが待っている区域の集合場所的なところでバスからおろしてもらい、親とセットでばいばいというのが一般的であった。(むしろ安全面的にそれでないと帰せない。)
親が仕事で迎えに来れない人は居残り保育という制度があった。そういう子たちは帰りのバスには乗らず、幼稚園で遊びながら親の迎えを待つ。
私は母親が仕事をしていなかったので居残り保育には登録していなかった。
だから、バスに乗り込んだみんなと同じように集合場所でおろしてもらっていた。
しかしそこに私の母はいない。
先生に「ママいない」と伝えて再びバスに乗り込む。
それからわざわざバスで家の前まで送ってくれ、私が家のチャイムを鳴らすのを見守ってくれた。家のチャイムを鳴らしても、だれも出てこない。シンとした家が目の前にただあるだけ。
誰も出てこないのを確認してからまたバスに戻るのもすごく惨めであった。
ほかの区域の集合場所をまわり、周りの子がどんどんバスから降りていく。窓の外で親と笑顔で「ただいま」「おかえり」というやり取りをする。それを見るのがすごく惨めで、むなしかった。
みんなが下車した後、一人でまた幼稚園に戻り、居残り保育の子たちと一緒に遊んだりして親を待つ。
早い時はすぐに迎えに来てもらえることもあった。遅い時は居残り保育のみんなが帰っても迎えに来てもらえず、幼稚園が締められ、残業する園長先生のお部屋でひとり待たせてもらっていた。もう迎えに来てもらえないのかもしれないという恐怖を毎日抱えていた。
親が迎えに来ない理由は「寝ていた」。それだけであった。
ー ー ー
本当にさみしかった。あと怖かった。
いつか幼稚園に行かせてもらえなくなるんじゃないかという恐怖もあったし、もう家に帰れないんじゃないかという恐怖もあった。
ずっとおびえながら毎日を過ごしていた。
こういうことはしちゃいけないよほんとに。こどもの自己肯定感とか何もかもを失う。
お昼を過ぎたくらいから恐怖と惨めさとさみしさしかなかった。
こういうことがあっても親からは何も説明されない。
誰もフォローなんてしてくれない。
父はこういうことがあることすら知らない。
子供は何も言ってはいけない。
「よくわからないけど、そうなんだ」と思わないといけない。
毎日がイレギュラーで、規則性なんかなくて、よくわからない理不尽をただただ受け入れることしかできなかった。
園長先生の部屋では見栄をはって、何でもないような顔で過ごしていた。「私の毎日はこんなもんです、なんてことはないです、平気です、悲しくないです」って、思い込んで、自分の心を守ろうと必死だった。
泣き言もこぼせなかった。それ以上惨めな気持ちになりたくなかった。「さみしい私」を、受け入れるにはあまりにも、つらすぎた。